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クリミヤや黒海周辺のおっとり話

黒海周辺
クリミヤや黒海周辺のおっとり話

 
こんにちは。

最近話題の美人たち2の美人検事総長が気にな
なって、クリミア半島をネット内で見て歩きし
ました。

クリミア半島の中心地は、シンフェロポリ
人口34万人位。
重要な港はセヴァストポリ、人口34万人位。

半島といっても日本の四国よりも大きいようで
す。領地としての面積も十分あります。

議論が長引きそうな広さがありますね。

クリミア半島黒海の北岸にあるのですが、
その黒海の位置は大変なところにあります。

何が大変かと申しますと、知らない者が
説明しきれないということもあります。

次に、何もかにもが複雑です。

まず黒海はどこにあるかというと、
トルコの北の海になります。

トルコは長い間、強大なオスマン帝国があり、
トルコ周辺から地中海沿岸のヨーロッパや
北アフリカを領地にしていました。

黒海北岸のバルカン半島もクリミア周辺も
当然支配下においていました。

黒海の大変の1つですが、
オスマン帝国イスラム教、その前の東ローマ
帝国はキリスト教ですね。

そして、クリミアはクリミア・ハーンという
国名だったのです。つまり、
モンゴル帝国の一王国だったわけです。

大変の2は、
色々な宗教とか色々な民族とかが雑多に一つの
町を作っていても当たり前というのが、

黒海周辺の地域ではないかという気がします。

大変の3は、そういった状況の中で、

ロシア帝国オスマン帝国は12回も戦争を
しているのです。露土戦争と呼ばれます。

クリミア戦争といわれるのは
10回目の露土戦争です。

アルコールを禁止し、豚肉も食べない
オスマン帝国と、

ウオッカを浴びるほど飲み、豚肉だって何だっ
食べるロシア帝国が、

何回喧嘩をしても当たり前、
と済ませばいいのですが、

結論はそうなるのでしょうが、
もう少し迫ってみますね。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

クリミアと黒海周辺のおっとり話【2】

 
ロシアとトルコの戦争は露土戦争と呼ばれます。
人種名はスラブ人とタタール人となります。

オスマン帝国の勢力が大きく、領地はバルカン
半島ではさざなみが有名なドナウ川よりも
北に及んでいたようです。

モスクワでは、ロシアの勢力が力をつけてきて、
大国となりました。この二つの帝国が出会うのは
運命的だったでしょう。

最初の出会いは、1568年~1570年です。
日本では織田信長が活躍していた時期です。

黒海の南側の大国オスマン帝国が、クリミア
半島の王国クリミア・ハンの内政に乗じて
治め、

ロシア商人などを迫害したのが開戦の理由に
なったようです。

戦争の場所はヴォルガ川の河口アストラハン
です。ロシア・ツァーリ国の勝利。

戦後のコンスタンチノープル条約でロシアは
ヴォルガ川の通行権を獲得しました。

(ロシアが帝国であると自称した時代は
ロシア・ツァーリ国と呼ぶようです。
18世紀には周りの勢力もロシア帝国
であることを認めました。)
 
ロシア・地図・ボルガ川.PNG
 
2番目の出会い 1676年~1681年

オスマン帝国の領地拡大戦略に対抗してロシアが
応戦。ウクライナを北から南へ流れるドニエプル
川の地域が戦場になった模様です。
コサックの名前が出てきます。

最終的にオスマン帝国の勝利となり、
戦後のバフチサライ条約で国境を
ドニエプル川にすることになりました。

3番目の出会い。1686年~1700年

この長い露土戦争は複雑です。

1683年にキリスト教国のオーストリア、
ポーランドベネチア神聖同盟を結んで、
イスラム教のオスマン帝国と戦争を始めました。

この時期、ロシアはオスマン帝国と結んで
神聖同盟と戦うと表明していたようです。

状況はロシアとポーランドは1654年~1667年
の間戦争して、ウクライナの東半分を獲得して
いました。

この土地は戦後のアンドルソヴォの和約では
20年後にポーランドへ返還することになって
いました。

キリスト教国の神聖同盟側は、ロシアが
オスマン帝国側につくと困るので、

ポーランドウクライナの東半分をロシア領と
認めることでロシアは神聖同盟に参加する

ことになり、3年遅れて1686年からロシアは
オスマン帝国を相手に戦いをはじめました。

この露土戦争は、クリミア、アゾフ海の周辺が
戦場となり、ロシア・ツァーリの勝利でした。

この戦後のコンスタンチノープル条約では、
アゾフ地域のロシアへの割譲、30年間の停戦が
決まりました。

この条約締結後、ロシアは北のスェーデンと
戦争を始めました。

アゾフ海の東端にあるオスマン帝国のアゾフ
要塞の攻撃を指揮したロシア・ツァーリ
ピョートル1世は後の1721年にロシア帝国
皇帝となります。
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日本では江戸時代であり、大体ですが赤穂浪士
討ち入りのころです。ロシアとオスマン帝国
戦争が日本に何か関係があるかというと、
何も関係ないですね。

ウクライナはロシアとオスマン帝国の間、
ロシアとポーランドの間で全くいいこと無しの
状態だったと思われます。

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クリミアと黒海周辺のおっとり話【3】



【おっとり話2】に続きますと、18世紀に入り
ます。言うまでもありませんが、ロシアと
オスマン帝国は繰り返し戦争となります。前の
戦争が終結して10年後にまた戦争を始めました。

おっとり話【2】にスウェーデンが登場しま
したが、この戦争も複雑です。

1700年にスウェーデンバルト海諸国を相手に
戦争を始め、1721年まで続きます。

大北方戦争」と呼ばれるものなのですが、
1707年頃からウクライナが戦場となり、

ウクライナ・コサックはスウェーデン側に
ついたようです。

1709年、スウェーデンとロシアは、ウクライナ
中部のポルタヴァでの戦い、ロシアツァーリ
ピョートル1世が勝利しました。
スウェーデン王のカール12世は負傷して、
南のオスマン帝国に逃げ込んだのです。

4番目の出会い 1710年~1711年

ロシアのピョートル1世はカール12世の引渡しを
オスマン帝国に要求したのですが、この要求は
拒否されて、4番目の出会いとなりました。
「プルート川の戦い」と呼ばれています。

1710年~1711年に現在のルーマニア
モルドバの国境となっているプルート川が
戦場になり、オスマン帝国が勝利しました。

和睦交渉で、オスマン帝国はアゾフ地域の
返還とカール12世の身分が保証されました。
カール12世は1714年にスウェーデン
戻りました。

ロシアは大北方戦争に1721年に勝利して、
帝国として周辺から認めらることになりました。
初代皇帝はピョートル1世です。今でも尊敬されているようです。

ロシアはバルト海を通行できるようになりました。
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5番目の出会い 1735年~1739

1735年~1739年、オーストリアがロシア
帝国側について、ロシア・オーストリア・
トルコ戦争と呼ばれる戦争をしました。
勝負は引き分け。

オスマン側はセルビアベオグラードを奪還し、
ロシア側はアゾフ地域の領有が確定しました。

(16世紀にオスマン帝国ハンガリーまでを
領地にしていたので、オーストリアとも度々戦争をしています。

1718年には要衝のベオグラードをオーストリア
に占領されました)
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6番目の出会い 1768年~1774年

1768年~1774年、ロシア帝国ポーランド
オスマン帝国の両方を攻撃し、まずポーランド
を制圧。
その後、南のクリミアハーンを攻撃して
オスマン帝国に打撃を与え、ロシアが勝利。

クリミア半島アゾフ海周辺の宗主権を
オスマン帝国から獲得しました。
(第一次露土戦争とも呼ばれます)

ロシア皇帝は何にでも積極的だった女帝エカ
チェリーナ2世。一方のオスマン帝国は衰退を
始めことになりました。

この戦争の後、ロシア帝国クリミア半島の西端
セヴァストポリを軍港にして黒海艦隊を編成しました。
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7番目の出会い 1787年~1791年

1787年~1791年、ロシア帝国はオーストリアと
密約を交わし、バルカン半島の各地でオスマン
帝国と戦って、ロシアは勝利しました。

ロシアはクリミア・ハーン国の領地とオデッサ地域を併合しました。

ロシア皇帝は女帝エカチェリーナ2世

ロシアとしては、長年かけてカスピ海方面から
少しづつ西へ領地を広げてきたようです。
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【この頃の日本との関係】

1792年、ロシアの使節が根室に来て通商を求めました。
この時はロシアへ漂流した根室の漁民が、
ロシアで女帝エカチェリーナの許可をもらって
使節に同行していたようです。

1804年には、ロシアの使節が長崎に来て通商を要求しました。

1808年、間宮林蔵樺太を探検し、間宮海峡を発見しました。
それはいいのですが、なぜかロシア名は「タタール海峡」なのです。

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クリミアと黒海周辺のおっとり話【4】


こんにちは。

低気圧がベタッとしていて、発達しようかな、
どうしようかなと迷っている感じ。

今日は、大体雨模様ですね。

まだ、影響はないようなのですが
はるか南には台風がいます。
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黒海方面のお話ですが、

19世紀のオスマン帝国は軍の近代化を嫌った
保守派が主流だったようで、領地を失って
いきました。

8番目の出会い 1806年~1812年

19世紀に入るとバルカン半島セルビア
ボスニアブルガリアなどでオスマン帝国
対して反乱が起こりました。

これは1789年のフランス革命の影響で
民族意識の芽生えと言われています。

人種はスラブ人なのですが、南部スラブと呼ばれるようです。

オスマン帝国は鎮圧を試みたのですが、
ロシア帝国キリスト教徒の保護を理由に
介入しました。

そこでオスマン帝国はボスポラス、ダーダネルス
の2つの海峡のロシアの通行を停止し、
それが理由で1806年~1812年の間戦争となり
ました。

西はドナウ川沿岸、東はコーカサスと2箇所が
戦場となりました。

オスマン帝国は国内の政変で不安定となり、
ロシアはナポレオンの侵攻に備えるため、
この戦争を終戦にしました。

オスマン帝国は、セルビアの自治を認め、ウク
ライナのすぐ西のベッサラビア(現在の
モルドバ)をロシアへ割譲しました。

ロシア皇帝はアレクサンドル1世(1801年~
25年)です。

この時期、ヨーロッパはフランスのナポレオン
と、対抗する反フランスの同盟があり、非常に
複雑な情勢でした。

1812年にはナポレオンはモスクワに侵攻した
のですが、焦土作戦のため悲劇的な退却を
したロシア戦役がおこりました。
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9番目の出会い 1828年1829年

ギリシャが1821年にオスマン帝国から独立
したのですが、イギリス、フランス、ロシアが
オスマン帝国に介入し、ロシア帝国は開戦し
ました。

やはりキリスト教徒の保護という名目です。

9番目の出会いは、1828年1829年

この戦争ではバルカン半島ブルガリア地域と、
黒海東岸のグルジア地域が戦場になりました。

ロシア帝国が勝利して、ドナウ川河口地域と
黒海の東岸地域を割譲して獲得しました。

クリミアの黒海艦隊は支援の役割をしました。
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この頃の日本ではゴローニン事件というのが
ありました。

1811年ディアナ号というロシアの船を松前藩
国後島で拿捕して、艦長のゴローニンなど8人を
抑留しました。
副艦長のリコルドはシベリアに帰還しました。

12年にリコルドは国後島へ来て、日本人漂流
民を使者として、ゴローニンと交換を要求
するが、松前藩はゴローニンを処刑したと言って拒否
しました。

リコルドは報復措置として日本の廻船観世丸
を拿捕して、高田屋嘉兵衛らを抑留しました。

13年、リコルドは函館に来て高田屋嘉兵衛
とゴローニンの捕虜交換をし、ゴローニンは
帰国することができました。

後に、ゴローニンは「日本幽囚記」を著わし、
リコルドも詳細な記録を残しています。

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クリミアと黒海周辺のおっとり話【5】
 
こんにちは。

間もなく5月に入るのですが、おっとり話(5)
になって、やっと「クリミア戦争」にたどり着
きました。

クリミア戦争の後も、ロシア帝国オスマン
国は2回戦争をしています。

クリミア戦争からは兵器の発達などから、戦場
が悲惨なことになってきます。
・・・・・・・
10番目の出会い 1853年~1856年
 
10番目の出会いは、よく知られています
クリミア戦争」と言われるものです。
戦争の期間は1853年~1856年です。

ロシア帝国が、オスマン帝国内のキリスト教
正教徒の保護などを要求したのに対し、フラン
スとイギリスが反対し、オスマン帝国も拒否し
ました。

拒否されたロシア帝国ロシア正教徒の保護を
理由に、モルドバモルダヴィア)からルーマ
ニア東部のオスマン帝国軍を攻撃しました。

ギリシャがロシア側について義勇兵を戦地へ
送り、オスマン帝国軍を攻撃しました。

フランスとイギリスはギリシアに武力で圧力を
かけ、義勇兵への援助をやめさせました。この
結果、バルカン半島の反オスマンの動きは鎮圧
されました。

ロシアの黒海艦隊がクリミア半島のほぼ真南に
あるオスマン帝国の軍港シノープでオスマン
艦隊を奇襲して全滅させました。

この状況をみて、1854年にイギリスとフラン
スはオスマン帝国に同盟し、ロシアに宣戦を布
告して参戦しました。

同盟国側はクリミア半島黒海艦隊拠点セヴァ
ストポリの攻撃を開始したが、ロシア側はセ
ヴァストポリを要塞化して1年以上戦闘が続き
ました。

1855年にはサルデーニァ(イタリアの一国)
オスマン側に付いて参戦し、セヴァンストポ
リが陥落しました。

しかし、シノープ東方のオスマン帝国のカルス
要塞がロシアによって陥落しましたので、同盟
国側の勝利も、華々しく獲得するものはありま
せんでした。

1856年のパリ条約では、オスマン帝国の領地
を戦争前に戻し、黒海オスマン、ロシア両
方の非武装化が決まりました。

ロシアのキリスト正教徒の保護や、軍艦の
ボスポラス海峡の通行は認められませんでし
た。同盟国側としてはロシアの南下政策を
阻止できたわけです。

死者は両方で20万人以上というまれに見る
大激戦となり、負傷者はイスタンブール
病院に運ばれました。

病院には、イギリスから来たナイチンゲール
が看護の環境や体制を指揮して、死亡する負
傷者を激減させました。

怪我をした兵士がばい菌による感染症にかか
るのを防ぐための努力をし、回復して兵士が
故郷に帰るための心の準備をも考えた病棟に
変えたそうです。

それぞれの皇帝や王の名前は、この戦争を始め
たロシア皇帝はニコライ1世ですが、セヴァン
ストポリが戦闘の勝敗が決まる前に死去し、
アレクサンドル2世が皇帝に就きました。
フランス皇帝はナポレオン3世、イギリスの王
ヴィクトリア女王です。

この戦争は犠牲者や戦費の飛躍的に大きくなり、
ロシア帝国はアラスカをアメリカへ売却しまし
た。

(サルデーニァはイタリア半島の西の島なので
すが、この後イタリアを統一しました)

武器の発達、通信の発達、新聞の影響力、など
の近代化が進むのですが、帝国の国の体制にか
げりが出始めるということも起きてきました。

クリミア戦争中にロシア皇帝となったアレク
サンドル2世は、敗戦の反省から、西欧の制度
を取り入れたり、農奴解放、学校教育を始めた
り、改革の皇帝として知られています。
・・・・・・・
この頃の日本
 
ペリーが浦賀に来たのはこの時期です。日本も
列強国の動きに対応せざるを得なくなり、鎖国
か開国かで江戸幕府が揺れ始める時期になりま
す。

1853年にペリーが浦賀に現れたのですが、ニ
コライ1世の派遣したプゥチャーチンが長崎
に来ました。

1854年ペリーと日米通商条約が締結されまし
た。1855年プゥチャーチンと日露和親条約
締結されました。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

クリミアと黒海周辺のおっとり話【6】
19世紀後半の露土戦争
 
 
こんにちは。

竹の葉っぱが落葉していますね。
地面からタケノコが勢いよく伸びています。

なので、竹がタケノコに栄養を与えているよう
に見えます。
葉が分解して栄養になるのは数ヶ月はかかると
思うのですが。

以下は11番目の出会いです。
・・・・・・・
11番目の出会い 1877年~1878年
 
オスマン帝国ロシア帝国の11番目の出会いの
前は、1875年からバルカン半島各地で、
オスマン帝国への反乱がおきました。
ブルガリアではオスマン側の虐殺があったよう
です。虐殺が明らかになって、イギリスはオス
マン帝国を支援できなくなりました。

1877年、ロシア帝国はスラブ系民族の独立の
支援を名目に、 ルーマニア方向からブルガリ
アのオスマン帝国軍を攻撃しました。

黒海の東方ではのオスマン帝国の要塞カルス
を陥落させました。

ロシア帝国軍は、ブルガリアからオスマン
帝国の首都イスタンブールへ向かって進軍
しました。

慌てたオスマン帝国は交渉に入り、サン・
ステファノ条約が結ばれ、オスマン帝国
バルカン半島の国々の独立や自治権の付与を
認めることになり、黒海北岸はほとんどロシア
帝国の支配下や、影響下となりました。

黒海東岸では、アルメニアがロシアの領地とな
りました。

このロシア帝国の進出を警戒したイギリス、
オーストリアは 反対し、ドイツ帝国の宰相
ビスマルクの仲介で ベルリン条約が結ばれま
した。

大筋ですが、ベルリン条約でブルガリア地域は
3分割され、一部はオスマン帝国に返されるこ
とになり、黒海東岸地域でも一部かオスマン
へ返還されました。

占領した土地を返還することになり、ロシア帝
国内では、アレクサンドル2世への不満が出ま
した。

前のクリミア戦争後からですが、ポーランド
アレクサンドル2世への抵抗は強く、1881年
アレクサンドル2世はポーランド人に暗殺され
ました。
・・・・・・・
ロシアの東方進出とアジア
 
ロシアはクリミア戦争の敗戦から東方への進出
を計画するようになりなりました。

日本とロシア帝国の関係では、1875年千島樺太
交換条約を締結しました。日本側は榎本武揚
交渉に当たりました。

東アジアの情勢は、1858年に天津条約が清と
列強国で締結されました。これにロシア帝国
参加しました。

1860年には英仏連合軍は北京を占領して、北京
条約が締結されますが、ロシアが調停役となり
ました。

この結果、ロシア帝国ウラジオストクを中心
とした沿海州地域を領土としました。

1885年日本と清の間で天津条約が結ばれてい
ます。1894年日本と清が朝鮮半島に出兵して
日清戦争が始まりました。

1895年、日本と清の間で下関条約が締結され
たのですが、フランス、ドイツ、ロシアの三国
干渉が始まりました。

日本が返還した旅順をロシアは租借して軍港に
しました。

1902年、日本とイギリスが日英同盟が締結。
1904年、日本とロシア帝国との間で日露戦争
おこりました。

とうとう日本もロシア帝国と出会うことになっ
てしまったわけです。
1905年アメリカのポーツマスで日露の条約が
結ばれ、日露戦争は終結しました。
ロシア帝国の皇帝はニコライ2世
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 
クリミアと黒海周辺のおっとり話【7】
20世紀の露土戦争

こんにちは。

5月5日、ゴールデンウィークも終わりなので
すが、前線が通過して雨模様ですね。

以下のようなニュースがありました。その下
が12番目の出会いです。
・・・・・・・

タタール指導者の帰還要求=
検問所に5000人集結―クリミア

時事通信 5月4日(日)6時17分配信


 【モスクワ時事】ロシアが編入したウクライナ南部クリミア半島の少数先住民族タタール人約5000人が3日、指導者ジェミレフ氏の帰還を支援するため、ウクライナ本土との検問所に集結し、
ロシア治安部隊とにらみ合いになった。現地メディアが伝えた。

 ウクライナ最高会議(議会)議員のジェミレフ氏は暫定政権に近く、3月のロシア編入に反発したタタール人の精神的支柱。

2014年のノーベル平和賞候補に推す声もある。4月22日にクリミアへ帰還しようとした際、5年間の「入国禁止」処分を受けた。

 
 

  (ヤフーニュース 国際からです)
・・・・・・・

12番目の出会い 1914年~1918年

 

ロシア帝国オスマン帝国の12番目の出会い
は、1914年~1918年の第一次世界大戦です。
第一次世界大戦の前にバルカン半島では1912
年~1913年にバルカン戦争がありました。

ロシア帝国を後ろ盾にバルカン諸国がオスマ
ン帝国と戦争して、オスマン側は、バルカン
地域のほとんどの領土を放棄することになり
ました。

第一次世界大戦は、1914年に起きたサラエ
ボ事件を発端としてはじまりました。

オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・
フェルディナント皇太子夫妻が帝国の領土
であったサラエボで暗殺されました。
これがサラエボ事件です。

父親フランツ・ヨーゼフ1世は、暗殺し
たのがセルビア人だったので、オーストリ
ア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告
したのですが、簡単には勝利できませんで
した。

オーストリア側にはドイツ帝国、ブルガリ
ア、オスマン帝国が参戦し、中央同盟国と
よばれました。

セルビア側にはロシアが参戦したのですが、
ロシアとフランスが同盟を結んでいたので、
連合国軍と呼ばれました。

ドイツはフランスを攻撃する目的でベルギ
ーを通過したのですが、これが理由でイギ
リスが連合国側につき、イギリスの植民地
の国々も連合国に参戦しました。

日本は日英同盟に基いて連合国側に参加し
ました。こうした状態で戦争が始まったの
ですが、第一次世界大戦です。

ロシアとオスマン露土戦争は、世界大戦
の一部であり、黒海東岸地域が戦場になり
ました。コーカサス戦線とも呼ばれるよう
です。

ヨーロッパでは、ポーランド地域がロシア
軍とドイツ軍の戦場(東部戦線)となり、
フランス側ではドイツ軍がスイスからベル
ギーに至る長い塹壕作戦(西部戦線)によ
って膠着状態になりました。

・・・・・・・

帝国の崩壊や滅亡

 

1916年にオーストリア・ハンガリー帝国
フランツ・ヨーゼフ1世が死亡し、カール1世
が後を継ぎました。

ロシア帝国軍はアナトリア半島東部のエルズ
ルムを攻撃したのですが、1917年にロシア革
命が起こって、ロシア帝国が崩壊すると、ロシ
ア帝国軍は撤退し、オスマン側はアナトリア
で進軍しました。これが最後の露土戦争となり
ました。

1917年には、アメリカが連合国側について
西部戦線に参戦しました。1918年にはドイツ゚
革命が起こり、ドイツ帝国が消滅しました。

この年に、オーストリア・ハンガリー帝国
カール1世が国外へ亡命し、この帝国も消滅
しました。700年以上続いたハプスブルグ家
が終わったわけです。

次々と帝国が崩壊して、1919年パリでベル
サイユ条約が敗戦国ドイツと連合国側の各国
で結ばれました。

この年、オーストリアと連合国側でサン・ジェ
ルマン条約が結ばれ、ブルガリア王国とはヌイ
イ条約が結ばれました。

1920年連合国オスマン帝国の間でセーヴル
条約が結ばれ、アナトリア半島以外の領地を
ほとんど失いました。戦後になりますが、
1922年にオスマン帝国も崩壊しました。

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クリミア半島の状況

1917年、ロシア帝国が崩壊した後の混乱期、
クリミア半島は、短期的ですが、ドイツ帝国
クリミア半島を占領しました。

この時は、クリミア・タタール人の政府を作り
ました。

1918年にドイツ軍が撤退した後は、ロシアの
白軍の拠点となりました。敗北後はイスタン
ブールへ逃走しました。

1921年にはソビエト連邦の一部になり、
1930年代にタタール人、ギリシア人などは
土地を奪われ、コルホーズが作られました。

・・・・・・・

日本とロシアの関係

 

この時期の日本のロシアとの関係としては、シ
ベリア出兵があります。

捕虜になってシベリアに抑留されているチェコ
スロバキア軍の保護という名目で、連合国側が
シベリアの出兵を計画し、アメリカが出兵を決
定しました。

その経過から日本もシベリアへの出兵を決定し
ました。1918年の夏に連合国側はウラジオス
トックへ上陸したのですが、この年の秋に
ドイツが停戦協定を結んで、目的が無くなり、
他の国の軍は早く撤退しまし。日本軍が撤退
したの1922年です。


終わりまでお読みいただき、
ありがとうございました。

 

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